木屋町見聞録

明治時代の木屋町通と高瀬川
木屋町通と高瀬川

 角倉了以は息子の素庵とともに、慶長19年(1614年)に伏見から二条を結ぶ約11キロの運河「高瀬川」を開鑿しました。高瀬川の名称は輸送に用いられた平底の舟「高瀬舟」に因り、木屋町通は高瀬川の開鑿とともに拡張されました。

 上りの船荷として材木、炭、薪、酒醤、油、米、塩などがあり、次第に問屋街、藩邸が形成されていきました。木屋町周辺には現在も交易品を表す町名が残っています。また、下りには京の特産品、箪笥、長持、等が積まれました。高瀬川には船荷の積み下ろしを行うため、舟入、舟廻し、浜が設けられましたが、現存するのは一之船入のみです。新地開発、街並みの発展が進むと、料理店など遊行地も発展してきました。

 幕末には長州や土佐等の藩邸も在ったことから、勤王派の志士と佐幕派の侍たちが活躍しました。明治2年には旅客船の運行も始まり、京都博覧会では昼夜を分かたず早舟が運航されました。

 隆盛を極めた高瀬川の曳舟も、琵琶湖疏水の完成、輸送手段の変化に伴い、大正9年、307年の長きにわたる歴史の幕を閉じました。

森鴎外 高瀬舟
木屋町名所マップ
木屋町見聞録 池田屋

池田屋
河原町通り三条東入ル北側

池田屋跡

新選組は小高俊太郎を捉え白状させ、尊攘派(長州藩・土佐藩・肥後藩など)が密かに企てた陰謀が池田屋で行われることを知り急襲した。新撰組がその名を上げたのが池田屋騒動であった。

木屋町見聞録 酢屋

酢屋
河原町通三条下ル一筋目(龍馬通)東入ル

酢屋

慶応3年(1867)4月、脱藩を許された龍馬は海援隊を組織し隊長となり、土佐藩付属となった。京都では、材木商「酢屋」中川嘉兵衛方を海援隊駐屯所とした。

木屋町見聞録 瑞泉寺

瑞泉寺
三条木屋町下ル

瑞泉寺

太閤秀吉の甥、秀次とその一族を弔うために、1611年現在の場所に建立された。秀次は謀反の罪で切腹させられ、秀次の子と妻妾の一族39人は三条大橋西南の河原で処刑された。戦国の一大悲劇を語る寺である。

木屋町見聞録 土佐藩邸跡

土佐藩邸跡
木屋町通蛸薬師下ル

土佐藩邸跡

江戸初期以来、明治四年まで土佐藩山内氏の京都藩邸であった。幕末の同藩は藩論が交錯したため脱藩者があいつぎ、京都で天誅(てんちゅう)と称する刺客としての活動が目立った。明治四年に収公。

木屋町見聞録 坂本龍馬暗殺

坂本龍馬 暗殺
河原町通蛸薬師下ル西側

坂本龍馬遭難の地

慶応三年(1867)、寺田屋が目をつけられたため近江屋(醤油屋)に移った龍馬は風邪をこじらせ、中岡慎太郎と共に母屋の二階にいたところ、突然襲撃して来た七人の刺客の手で無念の最後を遂げた。

木屋町見聞録 古高俊太郎邸跡

古高俊太郎邸跡
西木屋町通四条上ル

古高俊太郎邸跡

山科毘沙門堂の家臣。湯浅喜右衛門になりすまし勤王活動を続けたが、同志宮部鼎蔵の家僕が捕まり潜伏先を白状したため、元治元年(1864)六月五日夜半の池田屋騒動へと進展した。

木屋町見聞録 土佐稲荷・岬神社

土佐稲荷・岬神社
河原町通蛸薬師東入ル北側

土佐稲荷 木屋町

1346年、鴨川西寄りの中洲に祠を建てて祀られたのが始まり。土佐藩京屋敷の鎮守としたため通称土佐稲荷と称された。近隣の産士神として、火除け、厄除け、大願成就、縁結びなど深く信仰されている。

木屋町見聞録 本間精一郎遭難の地

本間精一郎遭難の地
木屋町通四条上ル

本間精一郎遭難の地

越後郷士。過激な攘夷討幕論を説き、幕府と朝廷、薩摩、長州、土佐の勢力争いの渦中で疎まれ、酒浸りや暴言など目に余る態度が重なり、文久二年瓢箪路地で斬殺された。路地の窓格子の枠には刀疵が残されている。

明石博高
「明治文化と明石博高翁」明石博高顕彰会

明治の京都を創った木屋町ゆかりの偉人

明石博高

天保10年(1839)〜明治43年(1910)

四条堀川の薬種商の家に生まれる。大阪舎密(せいみ)局で理化学と生理学を学び、明治三年、京都府庁に入庁、殖産興業と医療の発展に尽力した。

 明石博高は、1839(天保十)年に京都の薬種商の家に生まれ、西洋医学や化学、物理学、漢学を学びました。1870(明治三)年に後の京都府知事となる槇村正直参事に招かれ府に出任し、東京奠都によって衰退した京都を活性化すべく、大きな役割を果たしました。

 その範囲は勧業、衛生、教育など多岐にわたり、欧米の新技術を積極的に取り入れて、矢継ぎ早に近代化策を進めていきました。

 主な実績として、小学校や集書院(図書館)、療病院(府立病院)、欧学舎(外国語学校)、画学校(京都芸大)などの医療・教育機関設立に関わり、京都府勧業掛として、島津源蔵ら多くの優秀な人材を育てた舎密局をはじめ、養蚕場、牧畜場、製紙場、ビール醸造所、製糸場などを設立しています。

 文化や娯楽でも足跡を残し、明治5年の京都博覧会に合わせて、明石博高の肝いりで「鴨川をどり」や「都をどり」が始まりました。また、日本初のスパ・リゾートと呼べる温泉場を円山に開き、1日千人以上の来客で賑わったそうです。

 明石は、明治14年に京都府から退官して実業界に入り、その後は医学に専念しました。

市井の医師 明石 (あかし) (ひろ)(あきら)

―「いやし」ある街をめざして―

国際日本文化研究センター
総合情報発信室・助教
光平有希

 天保10年10月、明石博高は薬種商を営んでいた明石弥平の子として現在の京都市下京区四条通堀川西入ル唐津屋町530番地で産声をあげた。幼くして父を亡くした明石は、嘉永4年から安政6年までの8年間、祖父・弥助のもとで西洋医学と東洋医学の双方を学ぶこととなる。その知識がその後の明石を形作っていく。慶応元年26歳の時、蘭方医の新宮涼閣や新宮涼民、幕府医官柏原学而、さらに儒医の桂文郁らと「京都医学研究会」を組織。会員たちは有馬温泉や平野鉱泉などの成分や効用を分析した。翌年には有志と共に「煉真舎」という理化学研究会も起こしている。

 さて、明石は慶應4年1月、京都南郊の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍との戦いが勃発するやいなや、直ちに救急薬を携え戦場にむかい、慰問と投薬を幾度となく続けた。さらに救急隊を組織を提案し、蘭学者の辻礼輔に直談判して軍陣用機車を購入。間もなく近畿地方は平定したため、結局それらを実際に使うには至らなかったが、明石の行動力には目を見張るものがある。その後、明石を含めた医学研究会の所属者たちは、錦小路頼言に建議して京都御苑内に病院を開設。明石は錦小路家の執事であり、洋医でもあった木村得正とともに医務をとり、戊辰戦争の死傷者救済に奔走した。明石たちは同病院に外国の医師を教師として招聘するよう、時の太政官・岩倉具視に建議するも、未だ騒然としている時勢の中で外国人を京都入りさせては新たな騒動の火種になりかねない、ひいては、まず大阪の地に外国人を招聘する病院を解説し、頃合いをみて彼らを京都に移しても遅くはないだろうと諭され、外国人招聘は一時断念することとなった。しかし、これにより大阪に病院ができることに繋がり、新設された大阪病院で明石は薬局主管兼看頭に着任した。

 明治2年4月には大阪舎密局が開設し、明石はオランダの医師ハラタマに理化学を、同じくオランダの軍医ボードインから生理学を学んだ。ボードインの話から、検黴(梅毒の検査)の必要性を痛感した明石は、一目散に京都に戻り、当時京都府の顧問をつとめていた山本覚馬に梅毒検査所の必要性を直訴した。山本ならびに京都府参事・槙村正直の許可を得た明石は、すぐさま祇園のお茶屋、一力の主人・杉浦治左衛門の所へ出向き、芸者や遊女に対する梅毒検査・治療の必要性を力説した。その結果、貸座敷業者の共同出資によって明治3年7月、祇園御幸道に「療病館」が建設。同年9月、京都府に移管された。こうした四方八方に活躍を続ける明石は「療病館」設立の翌月、槙村参事の招きで京都府に出仕することとなる。

 明石は京都府に出仕後まもなく、京都にも外国人医師の招聘をした上で洋式病院と医学校を興すべきであると府に申議した。しかし当初、府からは時期尚早という判断が下され、創設資金を獲得することは叶わなかった。そこで明石は、旧知であった岡崎願成寺の住職・与謝野禮嚴をはじめ僧侶たちにかけ合い資金調達に奔走。明治5年、京都療病院(当時:仮病院)が木屋町二条に開設、同年11月には青蓮院に移り、13年から河原町広小路に本院が開院した。療病院には3名の外国人教師が着任した。初代ヨンケルは、明治5年に療病院に赴任。診療と並行して麻酔学、解剖学、外科学、内科学などの講義を開始するほか、診療、研究、教育の基礎固めに努めた。第二代外国人教師のマンスフェルトは、ポンペやボードインの後任として、江戸幕府が長崎に設立した西洋医学校・精得館に着任、その後、熊本医学校を経て京都療病院に着任した。彼は療病院で医学教育の系統化に努め、療病院長設置の必要性を勧告した。続く第三代外国人教師ショイベは、明治10年に療病院へ着任。診療研究に熱心で、脚気・寄生虫の研究やアイヌの民俗学的研究にも足跡を残した。この療病院がその後、現在の京都府立医科大学に発展していくことは、多くの方がご存知のところであろう。

 さて、明石は身体だけでなく精神の健康、そして「いやし」の必然性も強く訴えた。明治8年、京都府は岩倉大雲寺における加持祈禱に頼る精神障害者の治療法の改善の手段として、日本初の公立精神病院である京都癲狂院の設置を計画した。立役者である明石は、禅林寺前管長東山天華の協力を得て南禅寺方丈内に仮癲狂院を設立、岩倉大雲寺等の患者を収容した。開院は同年7月25日、初代院長には真島利民が就任し、療病院でその任にあたっていたヨンケルが主軸となって治療がおこなわれた。京都癲狂院、同時代の西洋で拡がっていた啓蒙的な精神医療「モラルトリートメント」が重視され、精神療法のほか作業療法や園芸療法、音楽療法までもが取り入れられた。そして、そこで用いる治療内容は、西洋で行われているものをそのまま模倣するのではなく、日本に住む、京都に住む患者の文化土壌に根差した治療が重要視された。明石は心身双方の健康そして治療に主眼を置き、いいかえると全人的な治療の必要性を訴え続け、府官時代にはこうした医療に関する設備、制度づくりに奔走した。

 明治14年に京都府の政策転換を受けて退官すると、明石は市井の医師に戻り、明治16年、河原町通蛸薬師東入ル旧土佐屋敷内の私邸に「私立厚生病院」を開業する。同院では、施術のほか煎剤から乳剤、軟膏類に至るまで種々の薬を処方し、急患だけでなく入院患者にも対応し、貧困に苦しむ者には無償で施療施薬を行った。青年時代から各地の鉱泉・温泉の化学分析に取り組み、温泉療法をも研究しつづけた明石は、明治6年には円山吉水弁天堂南に「吉水温泉」を、京都府を退官した明治14年には自宅南の官有地に「明石湯」を開業。「明石湯」は明治24年に旧土佐屋敷内(旧立誠小学校北門の向かい)の私邸に移り、その後所有者は変わりつつも、西木屋町通真橋上ル西側の「明石湯」とともに昭和40年代まで地元民に親しまれた。「医」をめぐる明石の足跡からは、京の地に「いやし」が定着することを常に追い求め、生涯奔走していたようすがうかがえる。